【解説】Fundamental Problems of the Natalism vs Anti-Natalism Controversy
- Yuichi NAKAGAWA
- 2019年3月4日
- 読了時間: 5分
更新日:2019年11月16日
本発表は私が2018年夏に第一回人生の意味国際学会で行ったものである。
詳しい詳細は業績一覧より。
議論の要点
1.David Banatarの反出生主義の前提批判
2.同様の構造が出生主義側にも見いだせることを指摘
3.新たな枠組みの必要性を指摘
*以下の内容は口頭で補った部分が多く含まれるため、厳密な論証を確認する場合は下記ファイルをご参照ください。
David Banatarの前提批判は非常にシンプルで、彼が提示するアシンメトリーは万人に絶対的に妥当する根拠を提示し得ないために、苦痛>快楽であることを決定できないというものである。*功利主義的、統計学的アプローチはもちろん可能。
しかしこれは反対陣営にも言える。
出生主義者とて、快楽>苦痛を絶対的に万人に値するような形では決定できない。
したがって、この枠組みでの議論は実りあるものとは思われない。
なぜこれがうまく行かないかというと、「私」の人生から見える問題と、「人間存在」が存在することによる問題を区別し得ないからである。言い換えれば、当事者性を排除し得ないということになるだろう。
反出生主義者は自身の人生が苦痛に満ち満ちていることを痛感している。
それゆえ、話し手にとって人生が生まれるに値しないものであることは自明となる。
同様に、出生主義者はこれまでの自分の人生が生まれるに値するものだと肯定している(あるいはしたいと思っている)からこそ出生主義者足りうるわけである(1)。
上記のアシンメトリーを考える際、この直感の振り払い難さは自覚されるべきだというのが私の一つ目の主張である。互いに反例を持った状態で議論しても実りあるものになるとは思われない。一方で、当事者性を振り払った議論など構築しようがないというのが私の二つ目の主張である。
絶望的な環境下に生まれ落ちた人間が素晴らしい人生を送る例を私たちは多く知っている。逆に、環境的には相当恵まれている人間が絶望し、酷い事件を起こす例も枚挙に遑がない。
つまり、どちらか一方の立場に立とうとすると必然的にそうした千差万別を全て暴力的に一方の枠組みへと押し込むことになる。したがって、このようにして得られた結論が未来の子どもたちの誕生を決定する際の確実な基準にはなり得ないように思われるのである。
最後の論点は比較対象の問題と関連している。
つまり、私たちは皆立場は違えどもすでに生まれてしまっているのであり、真にフラットな状態で生まれてきた状態と生まれてきていない状態を比較することは不可能であるという問題である。
したがって、次の課題はこの判断不可能性をどう扱うかである。
具体的に言えば、生まれ落ちる予定の環境が(客観的にみて)酷いと判断しうる場合に、この判断は必ずその環境下で子どもが生まれてくるべきではない理由に結びつくのか否かという問いである。
この問題に対して、私は無理に判断しないという立場があるのではないかという主張を行った。なぜなら世界の側に存在する不幸は世界の側に存在している私たちの問題であり、私たちが解決できていない問題を理由にして子どもを生まないという選択もまた、子どもを同意なく産み落としてしまうことと同様に反道徳的であるように思われるからである。つまり、どちらに転んでも反道徳的になりうる可能性を秘めている(2)。
もちろん反出生主義者に言わせれば疑わしきは罰せずの原理で、疑わしきは産むべからずとなるだろう。私もこの論点には同意である。疑わしい場合においても無理に子どもを作るべきだとは思われない。明らかな困難(経済的、環境的、人格的など)を抱えているにも関わらず無思慮に子どもを産むことは不幸な出来事であると言わねばならないだろう(3)。
しかし、だからといってその生まれてきた子どもが必ずしも不幸になるわけでもないのである。ここでまた一般/個別の区分が破られてしまうことになる。客観的にみて不幸な出来事ではあるが、当の子どもは幸福であるという可能性は否定仕切れないはずである。具体的なモデルは提起できなかったが、この問題を解決するためにはまず誰の誕生なのかという観点が必要であり、ひいては人称性の問題に繋がることを指摘した。加えて分析哲学の議論だけでは前提批判に陥ることになり、本質的な問題解決には至り得ないように思われるため、現象学的、あるいは実存的アプローチが必要となるのではないかという提起にて本発表は締めくくられた(4)。
(1)反出生主義者が誕生を肯定できるかという問題は非常に興味深い問いである。今回は議論のポイントを整理するために簡略化して書いたが、必ずしも反例に当たる対象が当人の人生である必要はない。何れにせよ立場を選択する際に、個人レベルの判断を無理に一般化しようとしてはいないか、あるいは一般論として語るために個人レベルの判断をないがしろにしていないかという問題提起である。
(2)なお、生まれてきた人間の人生であれば比較可能なのかという問いも当然考慮されるべきである。私は基本的に意味内容は比較不可能であるという立場である(事実が比較可能であることと、それがどのような意味内容を当人に与えているのかは異なる)。
(3)客観的に明らかにひどい事情など想定し得ないという可能性もある。生まれた瞬間に殺されることがわかっているといった場合は客観的に明らかにひどい環境と言えるように思われるが、それでもなお生まれてくることの意味を肯定できる余地は残されているような気もする。この点については今後の課題である。
(4)現段階ではこの一般/個別の区分が人生の意味に対する客観説/主観説と重なっていることがわかった。この問題に対して私は「引き受け」の観点から二項対立を脱した入れ子構造で解決しようとしている。
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