【解説】人生の意味の哲学入門(1)
- Yuichi NAKAGAWA
- 2019年3月5日
- 読了時間: 5分
更新日:2019年7月22日
*文献はこちらを参照。
1. 人生の意味を問うということ
人生の意味は一見非常に簡単そうな問いである。人生の意味なんてそれぞれの人間が見つけて、皆個別に自己実現すればそれで良いではないかと言いたくなったりもする。しかし、こうした物言いには即座に待ったがかかってしまうのである——それならば君、ヒトラーの人生は意味があったと言えるのかね、と。
転じて、マザーテレサの人生は素晴らしい、彼女は多くの人間を救い、意味ある一生を終えたと褒め称えることもできるだろう。彼女が持ち合わせていた性質こそ、人生の意味においてかけがえのないものなのだ、と。しかし、だからといってマザーテレサ本人が自分の人生を意味あるものと感じていたかどうかはわからないのである。
1.1 主観主義vs.客観主義
以上にみた言説が人生の意味の哲学における主観主義と客観主義の両翼を代表していると思っていただいて差し支えない。そして最初の例からもわかるように「人生の意味」における主観主義とは、人生の意味は客観的な基準では語り得ない個人の問題とする立場である。
次に客観主義について見ていこう。西洋圏では非常に人気のある立場だが、ここではサディアス・メッツ(2013)を代表的な論者として紹介しておきたい。「人生の意味」における客観主義とは、人生の意味は客観的な基準で語り得るとする立場である。メッツの主張によると人生には評価されるべき基準(価値)が存在しており、それは真・善・美に代表される。これらが人間存在における基底的な条件であり、これらの価値に対して理性を用いて主体的に向かっていくことで人生はより有意義なものになるとされる。欧米圏では比較的ポピュラーな客観主義だが、日本ではなぜか非常に評判が悪い。そしてなぜこんなにも評判が悪いかと言えば、「人生の意味」の意味が異なっているからだと筆者は考えている。
1.2 「人生の意味」の意味
一口に人生の意味といっても、どうやらその指示内容に食い違いがあるように思われる。現在メタ倫理学界隈で活躍する哲学者がこの問題に取り組んでいるが、未だに統一見解は獲得できていない。主観主義の立場から見れば人生の意味は「自分が設定した目的」や「自分の人生の内在的価値」として理解される一方で、客観主義から見れば「社会への貢献」や「他者にとってどれだけ重要性を持つか」といった要素が重要となるのだから、噛み合いようがないのも頷けよう。こうした現状に対して、そもそもどちらも大切な要素なのだから、どちらか一方にだけ絞って人生を語ろうとする姿勢自体に問題があるのではないかという指摘が複数存在している。
1.3 主観/客観区分の乗り越え
そんな議論を行う代表的な論者の一人がスーザン・ウルフ(2010)である。ウルフは混合説を唱えており、その主旨を簡単に言えば次のようなものになる。客観的に意味あるとされるものに主観的にコミットするとき、有意味となる。しかし、これはどこかで聞いたことのあるような議論ではないだろうか。そう、メッツの客観説といまいち違いがわからないという問題があるのだ。むしろメッツはここでウルフが客観的に意味があるとぼやかしている部分を真・善・美で明確に規定しているのだから、より優れていると言っていたりするのである。しかし、どちらとも上手く解決できていると認められてはいない。このような混合説はある種メタ倫理学界隈でやり尽くされており、このまま分析哲学的にやり続けていけば似たような膠着に陥ってしまうことになるだろう。
そこで森岡正博(2017)は主観/客観の二項区分に対し、独在論的に解決することを提案した。とはいってもヴィトゲンシュタインや永井均が言う閉鎖的な独在論ではなく、複層的なレベルを認めつつ各人の中核には絶対的に比較不可能な核——人生の意味の中核部分があるという次元での独在性である。しかし、この点については独在者の比較不可能性という概念に伴う困難さから、未だ多くの論者から共感を得ているとは言い難い。一方で主観/客観区分を乗り越える新たな一手を打ったという評価は誤りではないように思われる。
1.4 Meaning of life and Meaning in life
最後に比較的話題に登るMeaning of lifeとin lifeの違いを述べておくことにしよう。両者の違いは言葉の違いが示す通り、人間存在の意味と人生における意味といった違いがある。より厳密に言えば、前者のMeaning of lifeは必ずしも人間だけを指すものと断定し得ないだろう。この区分についてはおおよそ人生(人間存在)それ自体がどのような意味を持っているのかという問いと、人生の中で意味を持つものは何かという問いに区分されているように思われるが、この差がそのまま客観/主観それぞれに当てはまっているわけではない。
実際に客観説を取るメッツ(2013)はMeaning in lifeとしているし、ウルフ(2010)も同様である。両者が共通して認めているのは、いわゆるMeaning of lifeに問う価値はないというものである。なぜならMeaning of lifeとした場合にはlifeが一つの限界あるかたまりとして論じられることになり、一つのかたまりを論じるためにはその外の視点に立つ必要があるからである。いうまでもなくこの外の視点とは神の視点である。したがって、神が存在していれば人生(人間存在)には意味があるし、神がいなければ意味もないということになる。本当にこれほど簡単に片付けて良いのかは疑問の余地が残るが、少なくとも現在の潮流はMeaning in lifeの問題に傾いていると言えるだろう。
以上、非常に大きな枠組みではあるが、人生の意味の哲学の基礎付け部分に関わる大筋を紹介した。第二回では人生の意味に密接に関わるとされるタームに着目し、より応用的な部分にまで視野を広げて行くことにしよう。
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