勉強会情報
主催:20世紀哲学研究会(@東京大学駒場キャンパス)
日付:2019年8月18日(日)20:00〜22:00
参加者:中川優一(比較)、山野弘樹(比較)、福井有人(表象)
範囲:序、前半5ページ
第三回予定日:9月3日(火)20:00〜
内容
第一段落(p.18 一文化の基本的な諸コード)
・一文化の基本的な諸コードは経験的秩序というものと定めている。
→押し付けられるだけでなく、主体的にappropriationする契機も保存されているはず。
・その対極には一般法則を検討する哲学的解釈がある。
・フーコーが問うのはその中間項である。
・この地点に置いて、経験的秩序のしたに、どのようなものにせよ秩序というものが《ある》という生のままの事実を向かい合うことになる。
→言語、知覚、実践の諸コードなどが批判され、無効となる地平。
・このように、コード化された視線(経験的秩序)と反省的認識(哲学)の間には、秩序の存在etreそのものを解き放つ中間分野がある。
・ではこの中間分野とはどのような性質を持つものなのか?
→福井・中川解釈:ボルヘスの例はこの中間分野をうまく表している。フーコーはボルヘスが提示する分類表の共通の場所、座が想像できないとした。一方で、それはシナという想像的な場として提示される。つまり、ないようであるような、そうした座が中間項である。
→山野解釈:ボルヘスの例はむしろ経験的秩序に回収されているように見える。
・少なくとも、本文上に記載されている三項関係は以下である。
経験的秩序--むき出しの経験--反省的認識
第二段落(p.20 以下の研究で〜)
・いかなるところから出発して認識と理論が可能となったか...どのような歴史的アプリオリを下地とし、どのような実定性positiviteの本領内で、観念があらわれ、学問が構成され...ということが可能だったのか、ということを改めて問うものである。
・自らの可能性の条件の歴史といえる、一つの歴史を明確化する、そうした場としてのエピステーメーが問われる。山野コメント:方法論かつ対象としてのエピステーメー。
e.g.なぜそもそもカントはあのような問いを立てることができたのか?
・この探究は考古学である。
第三段落(p.21ところで、この考古学的調査は、)
・この考古学的調査は、西欧文化のエピステーメーのなかに、二つの不連続を見出す。
・一つは古典主義時代の端緒となるもの
・もう一つは近代性の発端をしるすもの
福井コメント:ルネサンス/ルネサンス以後/カント以後という枠組み
・古典主義時代から現代まで、一貫して繋がっているわけではない。
→実定性の体系は全体として大きく変わっているから。
実定性の体系とは何か?→福井コメント:おそらく言説の統一性である。
・考古学は同時性の諸体系だけでなく、新しい実定性の発端を定めるのに十分な変動の系列をも規定するに至るだろう。→未来に対しても向けられる考古学という方法論。
第四段落(p.22 かくして分析は)
・古典主義時代を通じて表象理論と言語、自然の秩序などの間に実在した整合性を示した。
→19世紀以降、この布置configurationsが完全に変わってしまう。
・表象の理論がまず消滅する。続いて言語が消える。...そうして人間が初めて登場する。
・人間は一つの裂け目であり、近代の配置によって描き出された一つの布置にすぎない。
→知が新たな形態を見つければ早晩消え去るものだろう。
第五段落(p.22 このような探究が)
・狂気の歴史が〈他者Autre〉の歴史であるとすれば、物の秩序に関する歴史は〈同一者Même〉の歴史となるだろう。
福井コメント:狂気の歴史は厳密には排除を推し進めたわけではない。そうではなくて、排除の仕方が変わるのである。かつてならば狂人は神へのアクセスを持った人間とみなされ、その言葉は傾聴に値した。しかし、近代では精神病院へと投げ込まれてしまう。
第六段落(p.23 さらに、病気というものが)
・〈他者〉の限界経験から医学的知を構成する諸形態まで、そこから物の秩序、さらに〈同一者〉の思考まで、考古学的分析に提示されるものこそ、我々を古典主義時代の思考から隔て、我々の近代性を構成する、あの境界なのである。
・この境界の上に出現した奇妙な知の形象こそ、人間である。
・大地は不安にうち震えている!!
(文責:中川)