本日2019年8月13日(火)、第一回『言葉と物』読書会が行われた。令和時代の幕開けを華々しく告げたSkype読書会の様子を以下、報告する。
勉強会情報
主催:20世紀哲学研究会(@東京大学駒場キャンパス)
日付:2019年8月13日(火)20:00〜22:00
参加者:中川優一(比較)、山野弘樹(比較)、福井有人(表象)
範囲:序、前半5ページ
第二回予定日:8月18日(日)20:00〜
内容
第一段落(p.13 この書物の出生地は〜)
・本書の出生地はホルヘ・ルイス・ボルヘスのテクストの中にある。
→このテクストが引用する「シナのある百科事典」はある笑いをもたらし、フーコー自身が根ざすヨーロッパ的価値観を基礎とする思考を揺るがしてしまう。
・ボルヘスが用意する分類法の突拍子のなさ。
→この寓話によって全く異なった思考の魅力として示されるのは、われわれの思考の限界、つまり、《こうしたこと》を思考するにあたっての不可能性である。
問い:こうしたことを思考するにあたっての不可能性とは、人類一般の言語能力に見出されるものなのか?あるいは、特定のコンテクストにおける不可能性に留まるのか?
→議論の結果、前者を指しているように思われるという結論に至った。
第二段落(だがいったい何を〜)
・シナの百科事典が示す突飛な分類一つ一つにも、詳細な説明を付すことはできる。
→しかし、まさしくその作業によって、それらの感染力を局限することになる。
中川コメント:こうした言語による思考範囲の限定はヴィトゲンシュタインを連想させる。
・異常さとは、こうした一つ一つの深層に隠れているわけではない。
→分類における諸存在を引き離す間隙のあらゆる余白に滑り込んでいるのである。
→つまり、先に述べられた不可能性とは、そうした諸存在が何気なく並置される、その間の距離が不可能であることを指している。カテゴリーでくくれることの不思議。
「と」の問題への接近か。
問い:では、諸存在をカテゴリーとして括る際に前提とされているものは何か?
第三段落(p.14 といっても〜)
・ユステーヌの例。《共通の場所 lieu commun》が示唆される。
・つまり、雑多に並べられているようでいて、それらが何らかの共通性、類似性などを持って結び付けられるような座siteが前提となっているはずなのである。
第四段落(ボルヘスが〜)
・一方で、ボルヘスの引く分類はその出会いの共通の空間そのものが崩壊している。
→ゆえに物の隣接関係ではなく、物が隣り合うことを許す座そのものが不可能なのである。
・ボルヘスの分類は、言語という非場所non-lieu以外並置できないように思われる。
→しかし、その一方で動物というカテゴリーを用いるとパラドクスに陥ってしまう。
問い:周知のパラドクスとされているが、結局これはどのようなパラドクスなのか?
→分類を行うためには仕切りが必要である。しかし、今度はその仕切りの居場所を考えなくてはならない。その仕切りが大カテゴリーの中に含まれるのであれば、他の仕切りとなりうるような全てが含まれてしまうことになるのではないか(存在論的インフレ?)。結局仕切りの位置付けは判然としない。
・少なくとも、ボルヘスはこうした問いを「手術台 la table d'opération」を遠ざけることで躱している。そしてこの台tableは二重の意味で用いられている。
・一つは、こうもり傘がミシンと出会う場所だ。この比喩は出典がわからなかった。
・もう一つは、言語が開闢以来、空間と交叉しあうところである。
→この後者の意味は十分に理解できる。
第五段落(p.16 このボルヘスの〜)
・ボルヘスのテクストがもたらす混乱:《混在的なもの l'hétéroclite》の次元=《共通の場所》を見いだすことができない。どう見ても諸存在が独立に散在しており、一つのカテゴリーで統合されているとは思えないという解釈で良いだろう。
・《非在郷 les utopies》と《混在郷 les hétérotopies》
・ユートピーは物語や言説を可能にし、人を慰めるが、エテロピーは統辞法を崩壊させ、不安にさせる。何もないという慰め:希望のアナロジー。不在であっても、構想できるという点に本質がある。
第六段落(ある種の失語症患者は〜)
・失語症患者の戸惑いは《共通の場所》を喪失している状態に類似している。
第七段落(p.17 ボルヘスを読むとき〜)
・場所と名に関わる共通の場所:失郷症と失語症。
・ボルヘスは一方で、ヨーロッパ圏を超え、シナを目指して行くように見える。
→この点が興味深い。というのも、フーコーにとっては異他なるものとして映ったボルヘスの分類も、その側から逆に照らしてフーコーを見れば同質の状況に直面するように思われるからである。フーコーはこの読みを認めることで何を論じようとしていたのか?
第八段落(p.18 われわれが〜)
・では、台、共通の場所を支えている整合性はそもそもどのようなものなのか?
・フーコーによる暫定的な結論は、どのような秩序にも「諸要素の一体系」があるというものである。つまり、類似と相似が現れるような線分の規定が不可欠である。そして、こうした秩序とは、物の中に内部法則として与えられる物である。この秩序が現れてくるのは、仕切りのなかからに過ぎない。
山野コメント:リクールならば隠喩論的想像力こそが土台であると答えるだろう。
まとめ
私たちの見方そのものを支えている秩序を問いたいのだが、この秩序は「私たちの見方」というフォルターを通してしかアクセスできない。序文前半はその難しさを記述しているものと読めると考えられる。
(文責:中川)
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