勉強会情報
主催:20世紀哲学研究会(@東京大学駒場キャンパス)
日付:2019年9月3日(火)20:00〜22:00
参加者:中川優一(比較)、山野弘樹(比較)、福井有人(表象)
範囲:第1章「侍女たち」前半
第四回予定日:9月17日(火)20:00〜
内容
備考:
・本章は本来ならば収録される予定のなかった論文のようである。しかし、事前に発表したところ好評だったため、含まれたとのこと。
・ベラスケス『ラス・メニーナス』を参照しつつ議論を追うとより明確である。
・今回は段落単位ではなく、テーマ単位での要約を行う。
二つの不可視性
・『ラス・メニーナス』内に位置する画家の視線。
・彼のみる光景は二重の意味で不可視である。つまり、一つには、彼が眼差す先にいる私たち(鑑賞者)が絵の中に描かれていないからであり、もう一つには、仮に描かれていたとして、その内容が描かれるはずのキャンバスの表(オモテ)面が見えないからである。
キャンバスの二つの機能
・背面しか描かれていないキャンバスは二つの機能を持つ。
・第一に、その背面しか見せない存在そのものが、画家が見つめている先の不可視性を、平面という形相の元に復元している。
・第二に、画面が見えないことにより、視線の関係が読み取られることも、決定的に確立されることも、共に妨げる機能を持つ。
→鑑賞者の流動性。鑑賞者とモデルの役割が永遠に循環する。
以上から、この絵を規定する潜在的な三項関係が見出される。すなわち、画家の視点、モデルのいる不可視の場所、そして画布の上に描かれるはずの形象である。
窓の光
・右端に位置する窓が取り込む光は、絵の中の空間と鑑賞者の占める現実の空間を同時に潤すことになる。
・右端から左端へ、光によって視線が誘導される。鑑賞者を画家へ、モデルを画布へ。
・この窓の反対にはキャンバスが座している。
・「イメージのなかの〈イメージ〉のきらめく、われわれには近づきえぬ場所」
→すなわちキャンバスである。「イメージ(ラス・メニーナス)のなかの〈イメージ〉(キャンバス上の不可視の絵)のきらめく、われわれには近づきえぬ場所」
・私たちの眼に映るのは鏡の鈍い色の裏側にすぎない→つまりキャンバスの裏側、姿見(プシュケー)のもう一方の側だけなのである。
*プシュケーは魂と訳されることが多いが、鏡という意味もあったようである。(福井)
鏡の存在
・絵の中心部分には一際目立つ絵画が置かれている。しかし、これは鏡である。
・オランダ絵画では、鏡が二重化の役割をはたすという伝統がある。
なぜスペインではなく、オランダ絵画の伝統を引くのか?
→時代背景を鑑みるに、オランダはスペインの統治下であった可能性がある。
→また、オランダ絵画と言えば初期フランドル派が想起されるが、この一派の特徴はまさしく寓意と象徴である。(中川)
・しかし、ここで鏡はすでに語られたことについて、何も語らない。
→鏡の位置どりから考えて、本来ならば画家の姿やその他の人々の後ろ姿が映ってしかるべきである。しかし、これらは映されることなく、二人組だけが映し出されている。ここから、鏡は「あらゆる視線の外にあるものにたいして可視性を回復させ」るのである。
ここまで不可視性がテーマであったのに、可視性が回復されるとはどういうことなのか?
→先取り解釈となるが、固有名を出さないという点に本質があるように思われる。すでに確認したように、鑑賞者、絵の外部にあるものの不可視性は位相を変えつつ循環するものであった。つまり、私が絵を見て立ち去ったあと、異なる誰かがその座につくことになる。したがって、常に誰かが鑑賞者となって絵と対峙することになるのだが、このとき鑑賞者とモデルの関係性の循環は閉じていない。なぜなら、固有名が与えられていないからである。しかし、鏡の中に存在する二人の人物の名が与えられたとき、循環は終わりを迎える。なぜなら、そのとき鏡に映っているのはフェリペ四世と王妃マリアーナなのであり、鑑賞者である可能性が排除されてしまうからである。
以上から、鏡は、固有名を持ち出さない限りにおいて、不可視なものの可視性を保証するのと考えられる。
(文責:中川)